現在、博多にいます。
先ほどまで島田さんが主催するクレイジーパパの集いに参加しておりまして、ホテルに戻ってきました。
その集いで話題になったのが、昨日食べたお寿司の話。その話にインパクトがあったのか感じるところがあったのか、クレイジーパパメンバーのひとりは早速予約して飛んでいきました(昨日参加できなかったので・・・)。
僕はというと、昨日のお寿司には・・・いや、あれはお寿司というよりも店主の名前を関した食べ物だと思うのですが、その衝撃度に驚いています。
今朝起きると目覚めがよく(単に寝不足だっただけでは、なんてツッコミを自分自身でしていましたが、それにしては肌はツルッとしているし頭も軽くて冴える)、朝起きてから20時19分の今まで、元気です。目がぱっちりと言うか、シパシパしないですし、頭が働いている感を覚えます。
思い当たるのは昨日のお寿司でして(便宜上、お寿司とします)、正直昨日食べたときは、ネタが進むに連れて「ああもう食べられないかもしれない・・・」とハラのなかでは思っていたのですが、あのお寿司が今日の僕をつくっているに違いない。
そう思うに至りました。
今まで僕の感じていた「美味しさ」というのは、味わいがいいことはもちろんなのですが、食べやすいとか、スルッと入るとか、いくらでも入る、というものでした。
美味しいからこそ食べやすく、スルスル入る。
しかし昨日食べたお寿司はそういう「美味しさ」とは対極にあるようなものでして、誤解を恐れず言えば、食べにくく、スルッと入らず、いくらでもは入らない。
僕だけかもしれませんが、食べている時に身体のある場所が痛くなったり。最初は大丈夫だったのですが中盤辺りから身体にジワジワと効いてきた感じです。
こういう効果もあるのかもしれないというのはまんざら冗談でもなさそうで、一緒に行ったカンちゃんからは「小野さん、それこそ聞くべきだったのでは」と言われましたが、あるタイミングで出されたお魚が、人によって違ったんですよね。
それだけならいろんな魚を食べてみて、ということなのかと思いましたが、一度島田さんの前に差し出した魚を、僕のところに差し出し直した、というのがエラく目を引きました。
あれはたぶん、僕の身体にあったもの、みんなの身体にあったものを出しているんじゃないか、そう感じました。
えらく年季の入った醤油や塩、そして発酵ですね、なんでも昔から使われていたものでつくっている。だから、今普通に使われているような調味料というのは使っていない(と思います)。
調味料を使えば食べやすくなるのでしょうが、昨日のお寿司は今風の調味料を使っていないせいか、存在からして重く、喉をするっと通らないあたりに生命をいただくとはこういうことなのではないか、と思うに至りました。
ねっとりと口のなかにとどまり、よく咀嚼しないと飲み込めない。
アスリートの食事とはこういうものをいうのだ、なんて思ったものですが、食べきった時に感じたことは、ああ、戦いが終わった、というもの。
食べるというのは生きることに繋がるわけですが、食べるというのは他の生命をいただくことでもあるように感じます。
生きるとは他の生命をいただくこと。
であれば、スルッと入ることがむしろ変なんじゃないかと、生命の抵抗がそこには在るんじゃないか、なんてことを思いながら、
しかしまた食べたくなる、会いに行きたくなるお店とはこういうものなのだろうな、と感じました。
コメント