卓越性を発揮するように変わることと周囲に合わせるは違う。

ひとりごと
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地下鉄空港線の博多駅にいます。ホテルを出て三日月の光が輝く博多駅までの道を歩いていたら、ふと思ったことがありました。

自らが変わらないと環境を変えても持続的な変化という意味合いでは、それほど意味がない。

環境を変えれば自分も変わるだろうというのは、依存的で自分の選択に責任を引き受けない姿勢であり、その姿勢だと望む変化はないし、幸運もやってこない。

美しくないですからね、姿勢として。かつての自分を振り返るとそうだなぁと思います。

では自ら変化すればなんでもいいのかというとそうではなくて、周囲に合わせる、周囲に迎合して変化しても、望む変化は得られないと僕は思います。

迎合という言葉を調べたわけではないですが、これも僕の私見では依存と同じです。自ら変わるというのは、周囲に合わせるとか迎合するとかとは違います。

ではどう変化するのかというと、自らの卓越性が発揮するように変わる、自らを変えていくことです。

自らに卓越性がわからない場合、なんでも経験する必要があります。そして、人から求められること、かつその行動や思考がそれ自体快適であること、これらが判断基準になるでしょう。

生徒会長やってくれない?と周囲から求められても、それ自体快適でなければそこに卓越性はないでしょうし、セールスレターを書いて欲しいと周囲から求められ、それ自体快適であれば、そこに卓越性はあるのでしょう。

判断基準を前にした時、自分のいい方に解釈したくなるのが人間ではありますが、この時に我を置いておかないと、的確な判断はできません。

そういう意味では、中庸な在り方を訓練した人でないと、卓越性を自ら判断することはできないと考えます。

だからこそ常日頃からなんでも経験するべきなのだろうし、やりたいと思ったことは何でもやったほうがいい。子どもの頃から何でも経験したほうがいいと人が言ったり、自分自身がそうだよなと感じたりするのは、そういう理由なのかもしれません。

何かをはじめるのに遅すぎるということはなく、いつからでもはじめることはできます。

それ自体快適であることを、毎日行う。

そういう人たちが増えれば、いい雰囲気に満たされた世界になりそうです。

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