他者理解と自己理解。

ビート・ザ・コントロール
この記事は約3分で読めます。

先ほど、実家に帰ってきました。

3日はセールスライティングクラスで今日は自分という器クラス。

資料の準備は時間を要するものの、話す内容というのは過去の経験を言語化したものなので、

そこにはもちろん木坂さんのセミナーや島田さんの話から得たものが加味されるわけですが、講座当日というのは総じて穏やかな気分になります。

講座がはじまるまでは準備をどれだけするかという緊張感があるわけですが、講座がはじまってしまうとどんなに準備をしたくともどうにもならないわけですから、

ある意味絶望の結果余裕が生まれるというか、そんな感じです。

セールスライティングクラスでも自分という器クラスでも、半年間やってみて共通のキーワードが登場しました。

それは、相対化。

もともと僕は相対化という言葉を使わずに、俯瞰するとか鳥瞰するとか、自分を含めて客観視するとか、色々なところにカメラを設置するとか、色メガネをかけるとか、

そういう表現を使ってきましたが、つい1週間前の木坂さんセミナーでも、相対化がキーワードとして登場しまして(キーワードかどうかは私見です)、

これまた私見ですが、島田さんが言うところの「ゆるく、たのしく、てきとーをモットーに、未完成品をあえて出す」とうのも、相対化というフィルターを通して見てみたら、個人的にはなるほどな、と思ったり。

相対化。

思えばアプレンティスで僕がダイレクト出版さんにおけるスプリットランテストで勝ち続けたのは、「自分を相対化してコピーを書いていたから」、と気づいたんですけど、

その結果、そういう他者理解が生まれて、島田さんのおかげでもこういう他者理解が生まれて、さらにビーコンのサービスを試した方々によってもああいう他者理解が生まれて、

それはもちろん、メルマガやブログの読者さんから見ても、何らかの他者理解が生まれている。

例えば「小野はダイレクト出版のコピーライターを次々と打ち破った」とか「1ヶ月に10本、2ヶ月で20本のセールスレターを納品した」とか、そういうふうに評されることが割と多いですが、

こういう他者理解というのはおそらく、相対化して眺めているからこそ出てくるものなんだと思います。

一方自己理解。

これまた面白い話で、僕は割とまっとうなことを言う人間だと自己理解していたのですが、島田さんが智頭合宿で言った「小野さん、8割スベっています」に驚愕した記憶があります。

そういう他者理解だったわけですよね、僕は。

まっとうなことを言う人間と自己理解していたというのは冗談なのですが、僕の場合、自己理解というのは当てにならないと感じています。

なぜなら、僕が思うように人は僕を見ていないものだからです。

むしろ自分の言っていることは正解だと思っていないので、僕はこういう人間である、という主観的な自己理解をそれほど重要視していないのかもしれません。

その代わり、誰々がこういうふうに僕を語っている、というのを大切にしています。

他者理解の数だけ自己理解があるというか、客観的な自己理解があるというか、そんな感じ。

さて、今日はそろそろ寝ることにします。おやすみなさいー。

セールスライティングスタートアップガイドの無料入手はココから↓




コメント

  1. 他者理解と自己理解と相対化の使い方が少しアレですが(苦笑)
    でも、それも含めて小野さんっぽくていいです!

  2. より:

    今回はネタの提供目的コメで。私も勉強中なのもので。相対の反意語が絶対とされてます。私の父曰く「この世に絶対は絶対にない」(ぉーぃ矛盾してるぞー、心のツッコミ)。寛容的に?解釈すると私の父はどうも「相対主義者」のようです。相対主義に対立するのが絶対主義。いわゆる相対主義というときは認知論的相対主義を指していて、ざっくり言うと絶対主義は真実は一つだー、というのに対して、相対主義はいやいや真実は人それぞれよー、的。で、相対主義というときは議論が大抵「主観性」とも大きく関わってきます。この主観性を一生懸命考えた一人がフッサールさんで主観を持ってどうやって他者を理解するのか、というので「間主観性」という考え方を打ち出しました。詳しい説明はgoogle先生に委ねます…相対主義で有名なものの一つ仮説がサピア=ウォーフの仮説と呼ばれるもの。ざっくり言うと思考は言語によって規定されている、みたいなもの。例えば、私たちが使っている日本語は複数形や冠詞がないので、そこにリンゴがあるよ、という時にそれが一つだろうが二つだろうか100個だろうが気にしませんが、例えばアメリカ人(英語を使う人)は、一個か二個以上かを明確に意識しています。ご参考までに。

タイトルとURLをコピーしました