先ほど、神奈川に帰ってきました。明日からは、タイです。
インターネット回線が太いうちに、セールスライティングクラスのレビューをやろうとスケジュールしている最中でして、ライティングしたりプロモーションしたりと、飛ぶ前にやっておきたいなぁ、と考えています。
さて、ゴミ拾いの理由。
この話、ブログで書く予定はなかったのですが、ルーツに関する話に繋がりそうだということで、書いてみることにします。
街を歩いていると、カンとかビンとか、ゴミが落ちていることがあります。
場所によってはそれはそれはとんでもない状態でして、1つ2つ拾ってもどうにもならないようなところもあります。
一方で、え、こんなところにゴミなんてめずらしいな、なんて場所もあったりします。
かつての僕は、ゴミが落ちていると「キレイにしたい」と思いながらも、拾う姿を人に見られなくないので素通りするか、人目がなくなってから拾うかしていました。
しかし、日本でもタイでも、街を歩く度に「キレイじゃないなぁ」と思うのならば、ゴミ拾いした方がいいと考えましたし、
特にビンとかカンの場合、仮に長男や次男が踏んづけたら転んでしまってよろしくないだろうと、そう思うようになったんですね。
両極を経験することを勧める僕にしてみれば、人目があってもゴミ拾いする自分になれば、いずれ人目を気にしなくなるだろうと。それを標準化することで、どんな場面においても分け隔てなく、自分の行動を決めることができるようになるだろうと。
そう考え、今に至ります。
両手がふさがっていたり、一日ひとつ拾ったりすれば、それ以降はゴミ拾いしなくてオーケーという自分ルールを設定し、外出時はゴミ拾いするようにしているわけなんですが、
やはり面白いもので、やっているうちに人目を気にしなくなりました。それどころか、この街はここにゴミ箱があるな、なんてつぶやきながら、一日ひとつだけではなく、目につく限り拾ったりもするようになりました。
ちなみにこのゴミ拾いを誰かに勧めようとかは考えたことがありません。あくまでも僕の在り方に関することですから。
で、ですね。
伊勢神宮の内宮に両親といった帰り道、五十鈴川を車に向かって歩いていたんですけど、
そこで何やら拾い始めた僕を見て、母が
「アンタ、小学生の頃ディズニーランドに連れて行った時も、ゴミ拾っていたわよね」
と言うわけです。
思わず、「え、ホント?」と聞き返しましたが、母に言わせるとキレイなディズニーランドの中において、さらにゴミを拾う僕がいたそうで。
う〜ん、こうなってくるとキレイ好きというか、強迫観念がぐるぐる渦巻く感じの、少年時代だったのかもしれませんが、
人目を気にするあまりゴミ拾いをしなかった自分よりも、今のようにゴミ拾いする自分のほうがストレスが無いなぁ、とも思ったわけです。
ドラゴンクエスト・ミュージアムでワイルドサイドの島田さんが、
「幼いことに夢中になったこと、寝食を忘れて行ったことに、自分のコアがある場合もありますよね」
というようなことを話したのですが、
ああ、ゴミ拾いはオレのコアだったかと。
妙に納得した次第です。
ふとした行動と過去の記憶に、自分が大事にしてきたもののヒントが、あるのかもしれませんね。
P.S.
厳密に言うと、街を見て「キレイじゃないなぁ」と思ったり言ったりするくらいなら、ゴミを拾おう、という行動を僕はしたいんだなぁ、と。
そういう言葉だけの世界を、無くしたいんだろうな、僕は。
見た目の美しさだけではない、在り方の美しさを、求め続けているのです。
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