琴線に触れた言葉を紹介します。スペインの画家、ベラスケスが言ったとされる言葉です。
「私は優美な画風で誰かの追随者になるよりも、粗野な画風で先頭に立ちたいと思った」
この言葉と出合ったのは今朝でして、日課の写経をやっている時。
現在の写経題材は『Wake Up, Now!』という、木坂健宣さんが書いたレター。
「ベラスケス」と「粗野な画風」で検索してみたところ、もうひとつこの言葉を紹介するWEBサイトがあったので、ベラスケスの言葉なのだと思います。
ちなみにその別のWEBサイトでは、
「優美な画風で人の次になるよりも、粗野な画風で一位になりたい」
と紹介されていました。
ベラスケスを調べてみると、「ラス・メニーナス」という作品が有名なようで、この作品を見るためだけに、世界中からプラド美術館に行くのだとか。
絵を眺めてみると、不思議な気持ちになります。たぶん、絵の中にいる登場人物たちの視線が不思議な気持ちにさせるのだと思いますが、どうやら別の人の視線を通して、ベラスケスは「ラス・メニーナス」を書いている模様。
画家というと自分自身の視点から絵を描くものだと思っていましたが、他者の視点を通じて描くとは。
小説などは主人公の視点から書かれるものもありますから、文章を書く手法を取り入れた絵画なのかな、とか思ったり。
作品の構図、製作技術、色彩、ドラマ性の全てにおいて絵画の最高峰にある作品で「スペインの宝」とも言われているのだそう(引用:https://gallery-aoki.com/salerasumeninasu.html)。
アップルのCM、『The crazy ones』を彷彿させてくれます。
優美な画風で誰かの追随者になるよりも、粗野な画風で先頭に立ちたい。
例えば、先日ダイレクト出版のレスポンスサミットがありました。「小野さんは行きますか?」と聞かれましたが、「行きません」と答えました。
なぜなら、自分が主役になれない場になど、行きたくはないからです。
これは僕自身の弱さでもあります。周囲の目を考えるのであれば、行くという選択もあるのでしょう。オトナになれ、ともささやき声が聞こえてきたりします。
でも、自分以外の誰かが表彰されたり、評価されたりする場所に行くことを僕が選択するのだとしたら、それは僕という人間の死を意味していると思っています。
自分が選択した事においては、自分自身が一番でありたい。それが偽らざる気持ちです。一番でないなら、まだ行く場所じゃない。
『ダイヤのA』という野球マンガがありまして、そこでも主人公の沢村くんが言っています。
監督「お前・・一度も試合を観にきてないようだな・・・・どうしてだ?」
沢村くん「・・・」
監督「いいから理由を言え!」
沢村くん「じ・・自分以外の誰かが・・・・マウンドに立ってる姿なんて見たくねーっス・・・・」
監督「なに?」
沢村くん「自分の力を試すために・・俺は地元の仲間を裏切ったんだ・・・・なのに他の誰かが活躍するのを心の底から応援できますか?」
「多分・・俺には無理です・・・・心の底から応援できねーなら・・行かない方がいいと思って・・・・」
ベラスケスも野球をやっていたら、きっと同じことを言うんじゃないか。
僕自身は、同じ気持ちです。
優美な画風で追随者になるよりも、粗野な画風で先頭に立ちたい。
そういうコピーを書くために、いろいろな場所に行き、様々な人を感じ、経験を言葉に変えていく。
あなたは、優美な画風を目指しますか?それとも、粗野な画風を?
P.S.
冒頭の画像は、ギャラリーアオキさんのWEBサイトから拝借しています。
著作権について調べたところ、著作権が切れている絵画の写真を利用することには違法性がないと。
とはいえ、連絡いただきましたら速やかに差し替えなどいたしますね。
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