得意なことは好きなこととは限らない。

ビート・ザ・コントロール
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昨日の続き

僕が特に2017年に戸惑ったことのひとつに、得意なことをやりましょう、というものがあります。

たぶんその時の自己解釈では、得意なこととはすなわち好きなことでして、コレをやればいいのかな、と思っていました。

しかし、得意なこととは必ずしも好きなことではありません。好きという感情は厄介だと感じておりまして、「意識的に」、好きでなければならないんじゃないか、という周囲からの強制圧力的なものもあり、それで好きとこじつけてしまっているものもある、と感じているからです。

たとえば、社会的弱者、子どもに対する考え方はわかりやすいと考えておりまして、例えば僕の場合、「子どもが好きですか」と聞かれても、「自分の長男次男以外、好きとはいえません」「正直、わかりません」と答えることが多いです。

でも世の中一般的には子どもが好きですか、と聞かれたら好きです、といったほうがいいような空気を僕は感じていまして、コレを強制圧力的なもの、と呼んでいます。

余談ですが、バスや電車で泣き叫ぶ子どもをみて、微笑ましいな、とニヤけてくることと、好きかどうかというのはまた別の話です。

子どもをみて和む、ほんわりと脱力することと、好きであるかは別だと思うんですよね。和んだり、脱力したって好きとは限らない。

「意識的に」そうでなければならない、という圧力を感じると、僕は胸が締め付けられるような感覚に陥るのです。

それで、得意なこととはすなわち好きなことなのか、と考えたときに、周囲の目から見て好きであったほうがいいんじゃないか、というものを好きなこととして伝える場合ってあると思います。

例えば僕は、セールスコピーが好きなんですね、と聞かれたら、はい好きです、と回答できるものの、タイが好きなんですね、と聞かれても、トルコのほうが好きです、と回答します。

タイで結婚してバンコクで長男次男と妻が住んでいたら、小野はタイが好きなんだろう、と人は思うでしょうし、そういうものなのかもしれません。しかし、好きとかそうでないとかでは、ないんです。

住んでいるからとはいえ、好きとは限らない。なるほど、であれば、得意なことであっても、好きとは限らない。

たぶん好きという感情は、いわゆる恋に落ちるのようなものであり、その人やモノや体験にスーッと磁力で引きつけられていくような、そういうものであって、意識的に好きかどうかを考えるものではない。無意識の領域だと思うんですよね。

ところがコミュニケーションとして発する「好き」という言葉は、意識的な考えを言語化するという意味を含んでいるように感じるのです。あくまでも、私見です。

だから、強制圧力的なものを感じるのかなぁ、と。

じゃあ得意なことってなんなのか、といえば、自然とやってしまっていること、だと思います。コレは自分視点からすると。

他者視点からすると、なんとなくなんだけどお願いしたくなること。たとえば、「小野くん、ブルペンで投込みするから、キャッチャーやってくれない?」こんな感じのこと。ちなみに僕は、キャッチャーが好きでもないですし、ブルペンにオレを連れて行くなんて何様だ?と思ったりします。ただし、キャッチングはチームで一番上手でした。音を鳴らすことができるし、ピッチャーのストレートをより伸びるように指示できる。

自分で感じること、他者からお願いされること、違和感にフタをしないことですね。

得意なことを認識するためには。

好きなこと、と考えてしまうと周囲の圧力とかこじつける意識の力が働きがちなので、気をつけよう、ということで。

P.S.
得意なことと好きなことが一致する場合も、もちろんあると思います。

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