僕たちは、問われている。

ビート・ザ・コントロール
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お楽しみ様です。小野貴正です。

神職養成講座も1週間が経過。いよいよ今日から祭式作法の授業が始まり、正座や正座作法でヒーヒー言うことに。ヒーヒーというよりも、エライシビレですけどね。先生もそれがわかっていて「いったんシビレを取りましょうか、焦らず立ってください」なんていうものですから、相当に僕らの顔はヒクヒクしていたんだろうな、って思います。正座から確か蹲踞の姿勢に移行したり、立ったり座ったりするのですが、なかなかに良い運動です。太腿の筋肉とかがないと、動けない。反動つけてエイヤで立ち上がることはできますが、反動つけたらダメだというのでこれは筋トレの時がキタ。

何かのブログでミスターモデリングが、最後はやっぱり筋トレだよとか、筋肉がモノを言うんだよ、って本気なのかどうかわかりませんが、そんな発言をしています。これまでは何を言っているんだろう、と冷ややかに思いましたが、今日は確かに筋肉だ、と思いました。モッチリーニがデトックスの先生を紹介してくれるようなので、デトックスと筋トレ生活を僕もはじめようと思います。経過は、いずれ。

さて、ふと思ったことをひとつ。

僕はどんな人でもやるべきことをやり続けたら一角の人物になれる、というか影響力のある人物になれるというか、読まれたり聞かれたりする人物になれると思っています。

木坂さんの「7つの鍵」ライティングセミナーに参加してからは、読まれるためには読まれる人物にならなければならない、つまり、主張のある人物にならなければならない、というようなことも伝えるようになりました。周囲で読まれる文章を書いている人ほど、主張がある。これはなるほどな、と思ったので。

誤解を恐れずいうと、ただ書くだけでは読まれる文章にはならないし、読まれる人物にもならない。書いている文章から主張が見て取れないと、人は一般論だと思うのでしょう。これだけ情報が容易に取得できる世の中ですから、どこかで聞いた話はすべて一般論というカテゴリーに入れられ、その人物が書いた文章は読まれることがないんだと思う。

そして主張がある人ほどやり続けられるってこともまた事実かな、と。

偶然をきっかけにして誰かの目に留まり、読まれだしたからこそベネマンのブログもビート・ザ・コントロールのブログもあるわけなのですが、そもそもこれらは誰かに読まれようと思ってはじめたわけではない。

矛盾するようですが、読み手を考えた上で文章を書く。しかし、読まれなくてもいい。なぜならば、書き続けることはライティングスキルの向上のためですし、語彙や文章という引き出しを増やすためのトレーニングですし、書けば書くほど早くなると考えていたので。

読者さんを前に言うのもなんですが、これは今でも変わっていない。仮に読者さんがいなくても、僕は書く。

なんでかというとそういう僕の文章だからこそ読む、という人が一定数はいることを、または出現することを、経験から学んだから。

読んで欲しい人に読んでもらう。一度読み始めた人だからと言って、その人に読み続けてもらいたいかというとそうではない。読んで欲しい人というのは確かにいて、その人がどんな人かはわからないのだけれど、それは自分の書く分書で人生がうれしくなったとか、ライティングスキルを学ぶきっかけになったとか、コア・バリューの大切さに気づいたとか、その人に変化を提供することができたとき、その変化を促すインパクトを受け止めてくれた人が、読んで欲しい人なんだと思う。

まだ見ぬ読み手の出現を期待もせず、ただ淡々と書き続けることができる。仮に、誰にも読まれなくても。

情報発信する側の僕らは、問われているんだと思う。今日、世界が最後の日だとしても、同じように書き続けるのですか、と。

もし書き続けられないのであれば、それは読まれないことを証明しているんじゃないかな。

少なくとも、主張はないんだと思うけど、どうなんだろう。

まあ、今日はこのへんで。

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