リサーチ中にハッとした事がありました。それが、自然には存在しないもの…直線の存在です。
言われて気づいたわけですが、ああ確かにそうかも、と思いました。
引用しつつ書きますと、日本的な建築物である神社の中でも伊勢神宮は、自然環境が豊かな中に存在し、その環境を維持することをも祭事のひとつとして残している感があります。
今読んでいる本の作者いわく、神宮の神殿建築や配置は自然そのものどころか、自然に対する人間の自己主張を見事に表している、というんですね。
そしてそれが、直線の強調にほかならない、と。
なぜなら、自然のなかに、直線のものなどなんにもないのである、と言います。なるほど。
直線では自然は成立しないですし、自然の全ては曲線とか曲面といったものによって構成されている、、、なるほど。
そんななかで、自然の外に出ることはないけれど、自然とは別の次元の世界をつくらなければならなかったということで、直線を創造したと。へえ。
これは伊勢神宮に限ったことではなく、神社とか神殿とかいったデザインのすべてが直線を強調していると作者はいいますが、確かにそうだなぁ、と。
神社を思い出すと直線を主体としていますし、神殿と言えば、、、ギリシャ、アテネのパルテノン神殿を思い出しましたが、確かに直線を強調しているように思います。
ただパルテノン神殿の場合は、下から見上げたときに壮大な雰囲気になるようにだったかな、厳密には直線ではなくて円柱の下のほうが太く、上に行くに従いやや細くなっているのだとか(確か)。
いずれにしても、自然とは異なる雰囲気を漂わせていることは、神社でも神殿でも同じだなとは感じます。
ここまで書いて思い出したのは、僕はベイブリッジとかレインボーブリッジとか、大鳴門橋とか明石海峡大橋とか、ベトナムのホーチミンとかタイのバンコクとかで、日本のODAで建築された大きな橋を車で通行するとき、その橋の巨大なアーチやボトルに心がときめき、うっとりすることがあります。
橋だけではなくて、新宿とか東京とかバンコクとかの超高層ビルを目にすると、ビルの壁まで行って天まで届くかのような高さを見上げることを好みます。
新幹線とかフェラーリとかブガッティとかの曲線美とはまた違った、建造物の魅力に惹かれるのは、もしかしたら人間の創造物に安心するのかもしれません。
だからですかね、この作者がいうところの
心細い思いで深い森のなかをたどってゆき、森の奥の直線の神社の前に立つときに人間は―日本人は―自分を発見して安心する。神社というものは、そういう効果をねらって森のなかにつくられている
という文章に頷けました。いや、実際に剣山でそういう経験したので。見渡す限りの森に、人は僕だけ。そして鹿が2匹。贅沢でしたけど、怖かったです、正直。
日本人のルーツを辿るというのは、自分を発見して安心したい、という思いがあるのかもしれませんね。
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