所属する場所を捨てて旅に出た僕は、自分という「所属する場所」を再発見することができたのだ。誰にも束縛されることなく、楽しく、情熱的に生きたい―僕が旅に託した想いは「場所」ではなく、この「自分」が可能にしてくれるものだということに気がついたのだ。
この時点で僕は新しい意味での「エグザイル」になった。僕の旅は「さまよう」ことから「生きる」ことへと変わったのだ。
世界を見て、見たものを歌い上げ、人と触れ合い、物語を交換し、生きていることを賛歌する。これが僕の旅であり、行く道なのだと思っている。
自分本来の姿に忠実であれば、人はどこへ行っても束縛されることなく、楽しく生きていける。自分の道を歩んでいける。そう僕は思っている。
そしてこの旅は決して孤独なものではない。行く道には数多くの「エグザイル」達が、同じような旅をして、自分の道を歩んでいるからだ。
(引用:『エグザイルス』ロバート・ハリス著/講談社)
東萩の駅で「構内作業中のためお待ちください」と書かれた切符売り場で待つこと少し。やがて現れた駅員さんに「出雲市まで・・・12時くらいにつく特急があったと思うんですけど、自由席でお願いします」と伝え、4,650円を払う。
出雲大社に行く方法はこの路線の電車に限っていえば、8時45分発の他、7時台の電車もあるし、13時台の電車もある。その中でも8時45分発を選び、益田駅発の特急スーパーおき2号の自由席を選んだのは、
僕自身がそうしようと決めたからだ。
久々に「選択が道を作る」ことを肌で感じ、タイやトルコ、ヨーロッパをバックパックを持って彷徨った日々を思い出した。起きたら時刻表とか『地球の歩き方』を片手に行く先を決める。トルコなら、マルマリスからバスでカッパドキアへ行く道もあるし、アンカラ経由でサフランボルへ行ってもいい。一旦イスタンブールへ行き、そこから寝台列車や飛行機でカッパドキアを目指すこともできる。
その時の選択で、出会う人も決まるし、撮る写真も決まるし、自分という人間が形成されていく。
旅の面白いところのひとつは、コレを現実的に体感できることだと僕は思う。もしコレを体感したいなら、ツアーではなく航空券のみを買って日本を飛び出し、帰りの航空券は捨てて日本語の通じない人たちの輪に飛び込み、自分の直感を信じて現地の人たちとともに移動し、生活をする。こういう旅がいいと思う。
『エグザイルス』を見ていたらシベリア鉄道でモスクワに行ったとか、スウェーデン人に一目惚れしてスウェーデンに行ったとか、そういう話が書いてあり、ロバート・ハリスに親近感を持った。なぜなら僕も、タイでチェンマイの子に一目惚れしたからヨーロッパからタイに戻った時、再びチェンマイへ夜行バスで戻ったし、スウェーデンにはいかなかったけれど、知人から『ボルボのヘッドライトを買ってきてくれないかな」と言われたことをオーストリアのウィーンかザルツブルクあたり、いや、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城かな、そのあたりで思い出し、ハンブルク経由で列車ごとフェリーに乗るというルートをトーマス・クックの時刻表で発見し、それでスウェーデンまで行こうとしていたから。
スウェーデンに行くという選択はしなかったし、チェンマイに行っても結局その子とまた会えることはなかった。しかしそういう選択を僕がしたということは僕の中に確かに残っているし、それが人生というものだと僕に気づかせてくれた。
実は日々の生活においても、僕らはそれを選択して生きている。
誰かが作ったレールに乗った人生とかいう人がいるけれど、それを選んでいるのは、自分だ。
実は毎日の生活は自分が選び、自分で決めている。
そういうことに気づくだけで、多分人生はとても楽しくなると、僕は思う。
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