お楽しみ様です。小野貴正です。
上海に行ったりタイに行ったり、日本の中でも萩や出雲大社、智頭に甲浦、伊勢神宮と鹿島神社、今度は弥山や三輪山に行くと言っている僕を見て、ある人は「小野さんの仕事は何ですか?」と思っているみたい。
数ある誤解の中でも面白いのが、「小野は家がなくなったらしい」というもの。コレにはかなり爆笑しました。伝わり方って本当に面白いな、と。
オーソドックスな誤解がセールスコピーライター。コレは確かに一理ありますし、その通りといえばそのとおりだけれども、、、この仕事比率を下げにいっているので、ちょっと違う、と言うか僕自身フィットしない。
じゃあ、ワイズマンのような事業プランナー?う〜ん、、、収益化されているならそれもそうだけど、、、まだやり始め、ですから。プロモーターかというとコレもちょっと、、、スキルにフォーカス中、ですから。
というか、僕自身わからない、ってのが正直なところ。ワイルドサイドの島田さんが言っていますが、「職業島田晋助」みたいな感じがフィットする感覚。
職業は?小野貴正です。そんな感じ。
こう言うと人は「え、、、」って感じになりますが、コレ、まんざらでもないですよ。職業イコール自分の名前。
会社勤めをやめてから名刺を持たなくなったので、名刺交換の時は決まって「名刺を持っていないので」と伝え、相手側のモノをいただくようにしています。
コレを繰り返していた時にふと思ったのですが、名刺交換したって今後の連絡をしない人はしないし、名刺交換しなくたって一緒になにかやる人はやるだろうと。
だったら、「コレ」という人とだけ、Facebookでもなんでもいいですが、連絡先を確保しておけばいいんじゃないかな、と。つまり、名刺って別になくてもよさそう。もちろん、コレは今の僕だから言えることであり、ステージが変わればまた必要になるかもしれませんが。
でも会う度に、すでに渡しているのに名刺をまた渡すのも、どれだけ印象にないんだよって感じで、失礼だろうと。
話がずれました。職業の話でしたね。
ふと思うのは、自分の職業を話すって必要なのかなってこと。なぜ話すんだろう?一緒に何か協業するならスキルと実績とかでもいいですよね。職業を話す必要って、こう考えるとない。
だったら、やっぱり自分の名前を名乗ればいいんじゃないかな、と。
自分ができることをわかりやすく一言で伝えるって意味では、職業を伝えるというのは便利ですが・・・こういう場合僕は今なら、コピー書いていますとか、広告書いています、と伝えています。
個人的には、伝えるに便利ではないですが、ある職業の枠に収まらないってのがいいんじゃないかなって思います。
なんか、どうでもいいことかもしれませんね。ふと思ったので、記しておきました。
P.S.
写真はルカーノ「デスク」とリモワ「チェアー」。こんな感じで、空港でも外でもスペース確保できれば、ライティングとかできますね。
コメント
18歳のときに、
とある外国人のコミュニティーに属することになって
連日連夜のパーティーで
会う人、会う人に
「仕事は何?」って聞いていたら
ある音楽事務所関係の人から
「仕事」とか、「年齢」とか聞くのは
日本人特有の習慣なの?
それは、何かの挨拶なの?
それは、何かの儀式なの?
何か意味あるの?
って、聞き返されたことがあって
日本人は、
「仕事」とか「年齢」みたいなものに
縛られすぎてるんじゃないの?
みたいなことを言われて、
さらには、
「仕事」とか「年齢」を聞くとか
「仕事」とか「年齢」の話をするのはダサいよ
クールじゃない。
もっと他に、話すことがあるだろう?
って言われた。
「仕事」とか「年齢」とかは
人間の、ひとつの側面でしかなくて
それが100%ではない。
なのに、
どこかで、それがアイデンティティーの100%
みたいになってない??
そういうものに
自分を閉じ込めたり
そういうものに
自分の可能性を制限させてはいけない。
というような「議論」になった。
このとき以降、
わたしは、
会話の入り口で
「仕事」とか「年齢」を聞くようなことを
意識的にしないようになった。
だからなのか、
今、わたしの周囲には、
付き合いも長いのに
未だに年齢不詳、職業不明な人が多い。
それでいて、みんな
「見た目」年齢が、若い!
で、
人に紹介するときも、
わざわざ「○○をしているXXさん」なんて言わない。
単に、「XXさん」と、
名前だけ紹介する。
それで充分なのだ。
大抵、そこから、新しい「何」かが生まれる。
そっちの方が、大事なような氣もする。
これが、
「職業」や「年齢」から自由な
外国人たちに、教わったことのひとつです。
彼らは、
1ヶ月、2ヶ月のヴァケーションをとって
よく「南の島」に行っていた。
それで、
いつも聞かれたのは、
なんで、日本人は行かないの?
なんで、日本人は、休まないの?
なんで、日本人は、長期休暇をとらないの?
だった。
とにかく、当時、
世界中から日本にやってきていた外国人たちと
毎日、過ごしていて、
日本の中だけで通用している「当たり前」が
どんどん熔解していって、
最終的には、彼らと似た感覚になっていた。
そんな彼らの大半は
日本のバブルの終焉とともに
「次」の新天地へと移住していった。
間もなくして、
インターネット革命の波が、やってくることになった。
「仕事」の話をしない彼らは
「仕事」の話をしないがゆえに
どこかで、もっと大きな「波」をキャッチしていたのだろう。
そして、それが、
彼らにとっての「当たり前」なのだ。
追伸:
上海からのHOTな映像レポート、ありがとう!
ココ、グッときました。
暗黙の了解のように、
形式的な仕事や年齢の話をするのって
生産に繋がる雑談よりも生産的じゃないのでは、
って思っていたので。
元来難聴の僕は、グッとこない話ほど
聴き取れない話はなくて、
聴き取れなくてもパッションがあれば
会話になるものなのですが、、、
だから名刺交換会とか懇親会が
苦手でした、というのを思い出しました。
「紹介してくれた人」という枕言葉がつくので、
確かに名前だけで十分、と思ったりもします。
何々している人で、と言うのはお節介になることも
あると思いますし・・・あ、だけど、、、
僕の場合、オーバーに「え、うそ!」というような
紹介をしてしまうこともあるかもです。。。
ギリシャのロドス島、トルコの地中海沿岸が、
まさにその「南の島」みたいな感じでした。
南の島ではないですが、ウィーンで
イタリア人男性と話していた時、
「日本人と一緒に仕事をしたことがあるが
とても真面目でね・・・」
と語ってくれてうれしくなったのですが、
あれから僕らの印象は変わったのだろうか、
とふと考えてしまいました。
日本でも外国でも、現地の人と接して
その土地の文化に親しむことは、
サバイバルする力を養うんじゃないかなって思います。
主観ですが、たぶん「我」も外しやすくなるかと。
日本の当たり前よりも、諸外国各々の当たり前よりも、
もっと大きな普遍的な当たり前・・・ユニバースかな、
コレを当たり前にできれば、
もうなんか人生楽しくて仕方がない感じがします。
このブログでもいずれアップしていきますので、
またお楽しみくださると、うれしいです!
小野さんの話は、そう、
島田さんにも共通するところです。
自らの枠をそこに収めてしまった方が
楽な他人と自分が存在しているなと
最近思うようになりました。
何々している◯◯です。
という方が安心。
今井先生が言われる保有力にも
つながるかと思うのですが
この解決しないもの、断定しないものを
ずっと答えを出さないまま
保有し続けることが大切だと
言われていましたが
コアバリューとよく似ているなと思いました。
わかります!
自らをラベリングしてしまったほうが、
その枠以上の考える必要はないですし、
ラクなんですよね。
僕はある意味、考えることを放棄するために
自分の枠をそこに収めているのでは、
と考えています。
変化を好まない脳なら、やりそうです。
というか、普通はそうです。
収めようとしないほうが、
ある意味「クレイジーな人」かと。
クレイジーな人たちへ、というアップルのCMを
思い出しました。アレは、名作です。
それでそのステージを超えた人が、
曖昧模糊とした状態を保有し続けることができる。
僕もそう思います。
ホントにワイズマン先生の言葉は
スーパーヒットです。深いんですよね。
ちなみにコレ、「わからぬがよろしい」と
『生くる』という本で執行草舟(しぎょうそうしゅう)さんが
言っています。
この本、ミスターアルケミストから教えてもらったのですが、
賢者舎前に1日1ページとか2ページとか読み進めるべき本かと。
読書論とかで否定はするな、とか。
学問は全人的な思考の中から生まれてきた思想なのだ、とかですね。
そうなんです。曖昧なままで保有していられるかどうか。
コレがクリティカルファクターの壁を超えて潜在意識に
アクセスするためにも、必要なんだと思います。
思考と思考のはざま、ですね。
そういえばこの間ミスターサードアイが、
「瞑想やっていますよ」って言っていました。
瞑想やると思考と思考のはざまに行きやすくなるかと。
あとはもちろん、
アイソレーションタンクとタイムドメインですね!