タイトルは昨日の賢者舎後懇親会で、今井先生が話した言葉。
その意図するところは汲み取れるようで汲み取れないような感じですが、それでもその筋トレを33歳からやり続けているそうですから、もう20年程度。意図は言葉にできずとも、やっていることの凄みは感じられます。
その行動が単純であればあるほど、しかし実際の生活には不要であればあるほど、それをやり続ける凄みというのを、人は感じるんじゃないかなぁ。
「なんかアイツはオーラが違う」
なんて言葉を聞く時、たぶんその「アイツ」から発せられるのは「誰もができることを誰もがやらないレベルでやる」凄みを感じているから、というのが一つあるのかな、と思っていて、
昨日License to beatの3クラスをフル受講している女性と話していた時も、そんなことを聞かれたのでそうだと思います、と。
結局のところ、コレは本当に極論ですが、うまくいく人とそうでない人の違いは、「やり続けられるかどうか」、これだけと言ってもいいんじゃないかな、と僕は考えています。
もちろん、そのやり続けられるということには前提条件があって、「誰もができることを誰もがやらないレベルでやる」、コレが大事。というか、コレなしでは難しい。
一目置かれるといいますが、一目置かれるには相応の理由があります。
誰よりも速く走る。誰よりも営業成績がいい。誰よりも納税額が多い。
言うなれば、一番であることがその条件の一つかな、と。一番こそが唯一無二の存在。
ただ存在しているだけで唯一無二の存在だなんて、僕にとっては長男次男や妻に家族、知人や友人に対してはそう言えるけれども、すべての人がそうだとは、思っていたとしても言えない。
だから、誰もができることを誰もがやらないレベルでやるというのは、僕にとってはとても大事な判断基準でもあります。
そういうふうに他者から言われるようになった時、本人の自覚はともかく、ある意味一番の存在になっている。
何でも経験することは大事だと考えていますし、僕自身そういう行動をするようにしています。
しかし同時に、誰もができることを誰もがやらないレベルでやり続けること。
「何者かになる」ためには、コレも必要。
筋トレだけじゃなく、毎日20キロ走る生活を続ける今井先生は、「なぜ毎日20キロ走るのですか?」と聞くと、「仕事のためだよ」とサラッと言う。
プライベートとか仕事とかを区別することなく、人生そのものを磨き続けていく。
そういう生き様が、「背中で語る男」をつくるんだと思います。
背中で、語りましょう。
P.S.
パーソナルトレーニングの成果か、僕は全身が筋肉痛で背中が丸まり気味ですが・・・あ今井先生も、ふんどしマンをご存じだったとは驚き。しかも、ふんどしマンに筋トレの方法を教えてもらったことあるらしいですよ。
P.P.S.
写真は昨年の賢者舎で、聴こえにくい僕に手渡してくれたレジュメ。背中で語る男は、やさしい。
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