なぜ、人は落ちるのか?
−這い上がるためだ。
言葉遣いに気をつけている僕ではありますが、覚悟を持って書いてみようと思います。男性向けです。
今の自分はこれまでの自分がつくりあげてきた結果であり、自分が選択してきた結果です。今いい暮らしをしているのもその人自身が選択してきた結果だし、もし望ましくない暮らしをしているのだとしてもその人自身が選択してきた結果です。
自分にはどうにもならない環境があるのでは、という方もいらっしゃいますが、それさえも自分の選択の結果と考えると、僕には世の中が可能性であふれているように感じられます。
起こってしまったことはすべて、いいことである。
この言葉を聞いたのは、25歳以上28歳未満の時に、村上龍さんの本を読んだときだと思いますが、今ならこの言葉の意味がよりわかる気もします。
全て自分の選択の結果なのだから、自分で責任を引き受けるだけ。すると、事態を良くすることができる。自分を成長させることができる。
そういう風にも思えるわけです。
タイの小道で走っていて転ぶのは僕のせいですし、長男が胃腸炎で戻してしまうのも僕のせい。
妻がタンブンに行かないとサヨナラグッバイだよ、というのも僕のせいですし、次男がいまだに哺乳瓶でミルクを飲んでいるのも僕のせい。
タクシーが雨で捕まらないのも僕のせいですし、飛行機の遅延も僕のせい。
あらゆることの責任は自分自身にある。
責任を引き受けるということは、「どうせ全部僕のせいなんでしょ」と投げやりになることでは決してなくて、「どうすればこの状況を変えられるだろうか?」と思考するためには必要な心構えだと僕は考えています。
誰かの責任にした結果、環境の責任にした結果、両親や家族の責任にした結果、自分で変えられることを放棄してしまいますから。
責任を引き受けるということは、自分で変えられることを意味しています。
タクシーが雨で捕まらないのであれば、他の手段を考えてもいいですし、目的地に行かずにホテルに泊まってもいい。お客さんとのアポならば、電話して事情を伝えてもいい。
飛行機が飛ばないならば、定刻通りにフライトする飛行機に振り替えてもいい。プライベートジェットを購入してもいい。
ハードルに直面した際、壁にぶち当たった際、ダークサイドに落ちた際、人によって表現は様々ですが、自分で責任を引き受けることで這い上がることはできます。
いや、自分で責任を引き受けることでしか、這い上がることはできない。
よろしくない状況になった時、人の優しさが身にしみてうれしい時があります。しかし、そのやさしさに身を委ねたって自分自身の状況が好転するわけではない。そういう友人の支えがあったからこそとか言いたくなるんですけれど、そもそもそういう状況をつくりだしたのは自分自身なのであれば、自分の弱さがつくりだしてしまった友人の支えなんじゃないか、と思ったりするわけです。やさしくされるなんて、オレ不甲斐ないだろうと(そうはいっても、僕はよく人のやさしさに触れると、涙ぐむどころか涙があふれてくるんですけど)。
それよりも大切なことは、自分自身で自分を奮い立たせ、成し遂げるべきことを成し遂げることなんじゃないかって思います。
決して走らないこと、自分を売らないこと。
自分の魂に耳を傾け、死ぬまでそれに従い続けること。
僕はそういう大人でありたいといつも思っています。世の中の男性諸氏も、そうであるといいなぁ、と願いつつ。
自分自身であれとはそういうことだと、僕は感じています。
P.S.
タイトルは『バットマン・ビギンズ』より。最近、クリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』を機内で観ました。タイに帰ると長男もセブンイレブンで『ダンケルク』が観たいとDVDを購入し、勝手に親子とはこういうものかと悦に入ってしまいました…。
コメント