補聴器の広告をよく見かけます。
新聞を開くとジャパネットたかたの広告に登場したり、ビックカメラの小さな広告に登場したり。
街を歩くとメガネ屋さんにはたいてい「補聴器あります」と書かれた文字看板を見かけます。
僕が難聴を自覚し、補聴器を持ったのは小学校高学年か中学生の頃ですが、その頃には「補聴器あります」なんて文字看板、補聴器を専門に扱うお店の前でしか、見かけなかったのに。
なぜ見かけるようになったのかな?と考えてみたところ、どうにもその理由はわからない。たぶんそれは、周囲に耳が通り人を見かけなかったからだと思います。
補聴器を耳にしている人、障害者手帳を持つ程度の人、手話が使える人、ろうあの人とはこの30年で会ってきましたが、それでも10人いるかいないか、、、実際にはもっといたのでしょうが、補聴器をつけているかどうかでいうと、とても少ない。
だから、「補聴器あります」という文字看板を見かけても、誰がコレ見て買うんだろう?という疑問が膨らんでいきました。
補聴器の広告を見てみると、たいていは「聴こえが良くなってテレビや会話を楽しめます」、こんな感じの見出しがあります。
僕はというと、補聴器をつけてまでテレビや会話を楽しもうとは思わないので、、、「〜して楽しめます」という方向性の約束には、カラダが動かない。
じゃあなぜ補聴器をつけてまで商談したりセミナーに参加したりするのかというと、商談を成約したり、セミナー内容を介したり、というのもあるけれど、目の前の人を知りたい、という気持ちがある。
目の前の人を知り、理解し、その人に心が動かされ、カラダが反応する。
微笑んでしまったり、涙がこぼれたり、そんな反応。
そういう時を求めて、僕は周囲の環境と目の前の人の声量と性質により、補聴器をつけます。
そして、コレはあまり言えたことではないのだけど、補聴器をつけていると見た目で「耳が遠いんだな」というのは伝わる。
やっぱり人間、何度も聞き返されるといい気はしないですからね、、、コレは僕もそうなんだけど、難聴なのに。
難聴であっても難聴でなくても、目の前に難聴の人がいたときに、「もっと大きな声で、大きな口で、くっきりはっきり喋ってください」とお願いされても、どの程度が大きな音で大きな口で、くっきりはっきりなのかはわかりません。
2回聞き返して聴き取れなかったら僕は、わかったふりをします。なぜなら、それ以上聞いても聴き取れない可能性は経験上高いし、相手の表情が曇って険しくなるし、それを感じる僕は残念な気持ちになるからです。
だったら、聴こえないのに聴こうと努力するのではなく、聴こえないからこそできることに集中したほうがいい。
コレがなかなか、日常生活においては難しいんですけどね、、、話がそれました。
私見ではあるけれど、耳が遠い人が補聴器を求めるときというのは、2つあって、
1つは、目の前の人を知りたい、という理由。
もう1つは、目の前の人を残念な気持ちにさせたくない、という理由。
これら2つだと僕は思います。だからこそ、「楽しく会話したい」し、「会話が弾むようにテレビの声を聴き取りたい」。
誰かと分かち合った感、波長が合った感を求めることなくして、会話やテレビを楽しみたい人は、そういないんじゃないかな…
人は一人で生きているわけじゃないですからね、誰かに必要とされたり、誰かを必要としたりしてこそ、生きるってことですから。
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