前回のブログではコミュニティの定義を調べつつ、僕にとっての定義を書きました。
コミュニティとは縁を感じあう人たちの集う空間であり、運命共同体的なものではないかと。
別の言葉で置き換えてみると、コミュニティとは家族、とも。
では家族ってどんな存在なの?と気になります。
そこでこのブログでは、僕の考える家族の定義について、書いてみたいと思います。
家族を調べてみると
家族の定義は?と聞かれると、そんなのお父さんとお母さんと子どもたちと、、、とは言えるものの、コレが家族だ!とまでは断言できない自分に気づきます。
暮らしを一緒に営むとか、一緒に住んでいるとか、、、人によって家族という言葉から連想することは様々だと思いますが、カンタンに思い浮かぶのは、結婚とか血縁とか、縁組とか、形式的なものかなぁ、とか。
僕は血縁、血の繋がりも大事だと感じる方です。
受け継がれてきた何かを物語る存在が僕たちというか、100年前後の人生よりももっと壮大で悠久の時を、遺伝子なのかどうかわかりませんがどこかに何かが記憶されていて、それを先祖から代々受け継いでいくことに人間の存在を超えた気配を感じるからです。
しかし、血族が家族かと言うと、それは違うんじゃないかと内なる僕は語りかけてきます。
そこでまずは家族という言葉を調べてみました。
家族(かぞく、独: Familie、仏: famille、英: family)とは、婚姻によって結びつけられている夫婦、およびその夫婦と血縁関係のある人々で、ひとつのまとまりを形成した集団のことである。婚姻によって生じた夫婦関係、「産み、産まれる」ことによって生じた親と子という血縁関係、血縁関係(など)によって(直接、間接に)繋がっている親族関係、また養子縁組などによって出来た人間関係 等々を基礎とした小規模な共同体が、家族である。また、血縁関係や婚姻関係だけではなく、情緒的なつながりが現在の家族の多様性によって最重要視されている。
しかしひとくちに「家族」や「family」と言っても、同居していることを家族の要件に挙げている場合もあれば、そうでない場合(つまり、同居は要件でない場合)もある。家族の持つ機能には、性的、生殖、扶養、経済的生産、保護、教育、宗教、娯楽、社会的地位の付与などがあるとされる。しかしこれらは社会の変化に伴って、弱体化し、大きく変容している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/家族
情緒的なつながりが最重要視されている
僕の場合、妻や子どもたち、両親や妹を家族だと考えていますが、それは一緒に住んでいるとか血がつながっているとか婚姻しているとかよりも、波長が合うというか、言葉にしなくても分かち合える何かがあるというか、安らぎのようなものを感じるからです。
親族に対しても同じような安らぎを感じることはありますが、皆が皆そうではないので、、、いわゆる親族を家族と定義するかというと、そういうわけではありません。
一方で、縁があるなとか、妙に波長が合うなとか、同じ言葉を持っているなとか、そういうふうに感じる人に安らぎを覚えるので、、、コレがWikipediaのいうところの情緒的なつながりなんじゃないか、と思いました。
情緒的に強く深く結びつく存在=家族
家族の定義を調べ、僕の記憶をたどってみたところ、情緒的に強く深く結びつく存在が家族なんじゃないか、と言葉にしてみるとフィット感があります。
同じ方向を見ているというか、理想を共有しているというか、生き様を等しくしているというか。
言葉を必要とせずに、なんとなくでもわかってしまう、もっと深いところでコミュニケーションしている者同士。
そう考えてみると、僕にとって家族というのは世界中にいる存在だし、ひとまずこの身体が機能するうちに、どれだけ家族と出会えるかということが、人生のテーマのように思います。
2003年にタイやカンボジア、トルコ、ヨーロッパを歩いてからというもの、なぜオレは移動することが好きなのかと考え続けてきましたが、どうやらひとつの答えが湧き出てきたように思います。
それは、世界中にいる家族と出会うこと。
そしてたぶん、ビジネスをするということは家族と出会うことと同義で、ビジネスをつくるということは家族をつくる、、、コミュニティをつくることと同義なのだと思います。
ちょっと話が濃くなりそうなので、、、続きはまた。
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