ちょっとこの坦々麺がウマすぎるんですけど、、、
今、香港におりまして、The Pierというキャセイパシフィック航空のラウンジで坦々麺を食べました。
その濃ゆさぶりには舌を巻いてしまいまして、気分を落ち着けようとチョコレートブラウニーとライムチーズケーキとハーゲンダッツのクッキー&クリームとアメリカーノを飲んで気分を落ち着けています。
そんな時に浮かんだのが、タイトルの言葉です。
自分がどんな人間なのか、自分はどう知るのだろう
この手の話には答えがないと考えていますので、僕は今こう考えている、ということを記します。
世界に自分一人しか存在しなかったら、僕は自分がどんな人間なのかを認識できるのだろうか?
そんなことを考えたことがあります。
きっかけは、幼い頃に見た夢でして、宇宙空間に浮かぶ自分がひとりで生命体がいなくなった地球を眺めている、というものです。
このシーンは今でもよく思い出すのですが、できることならば人に関わらないで生きていきたい、そのほうがストレスなくて快適なのに、と思いつつも、人とのつながりを求める自分自身を表していると思っています。
人がいない世の中は怖いし、人との関係性が僕の行動を生み出しているのだろうな、と感じるからです。
自分とはどういう人間なのかを考えるときに、常に人の存在があります。
こういう人たちが活きる世界をつくっていけたら、どんなにエキサイティングでこころ穏やかな暮らしになるだろう。
オレは一人で生きていけるんだ、と嘯いていた10代20代とは一転、人との関係性が大事だと、そんなふうに認められるようになったのは、行く先々で出会った人々から良くしてもらい、彼らの目を通して僕という人間を、わかってきたからなんじゃないか、そう考えています。
人の数だけ、経験の数だけ自分がいる
世界に70億の人々がいるならば、それだけの人々にとっての僕自身がいるわけで、異なる評価をする人もいれば、似た評価をする人もいるでしょう。
オノってこんな人だよね、うんそうそう、そうだよね、と複数の人が集まれば、抽象度が高まってオノ像という言葉が浮かび上がってきます。
いろんな経験をすることも同様で、経験をするたびにできることできないことがわかってきますし、人と比べると一層それは顕著になります。
すると、出会う人の数と経験の数、そしてそれらを掛け合わせた数だけ、自分という存在がどういう存在なのか純度が高まってくると思うんです。
それだけたくさんのフィルターを通して、不純物といったらよろしくないかもですが、濾過されて純粋な僕自身というものだけが、そこに残る。
そんなことを考えています。
長男次男と共に純度が高まる環境に身をおく
世界の街に行きたいというのは、単に移動したいということではなく、そこにいる人たちと出会いたいってことです。
そして彼らと一緒にいろんな経験をしたい、ということです。
長男次男を連れてシベリア鉄道の旅に出るというのは、個人的な趣味嗜好ももちろんありますが、それ以上に多様性に触れて、自分という純度を高めていくことができるんじゃないかな、と思うからです。
今回2ヶ月近く長男次男と一緒に過ごしてみて、僕という人間が毎日の生活に登場したことは、彼らにとってインパクトがあったんじゃないかと、彼らの変化から感じられましたし、僕自身にとってもインパクトがありました。
僕なりの長男次男との接し方、方針、望む環境が、言葉ではなく行動で現れはじめたな、と感じる滞在でした。
では、もう一度坦々麺を食べてきます。
P.S.
その担々麺はこちら、、、ガーリックチップスにネギとザーサイをのっけてみました。
そうか、、、この担々麺は、純度が高いんだよ笑笑。。
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