こんなことがしたいんです、そういう人がいます。
どうもこんなことというコンテンツや商品、サービスがその人っぽくないので、僕はこう質問してみます。
そのしたいことは、実際にお客さんから求められたものですか?
すると違うと、そうでないからやりたいんですと。
僕はこう聞くと考えてしまいます。
どうすればこのやりたいが実現できるだろうか、ではなく、どうすればこういう人が事実を認識してくれるかをです。
USPが通じなくなっている
熱々のピザを自宅まで届けます。30分以内に届けられなければ代金はいりません。
USPを学ぶと一度は聞いたことがあるドミノピザのUSP。
コピーを学んでいるなら、製造工程をウリにしたシュリッツビールのこともご存知かもしれません。
私見ではありますが、僕はこういうUSPと言われているものは、販売時に通用しなくなってきていると感じています。
通用しないというよりは、思ったよりも効果がない、売上につながらないんじゃないかなぁ、と。
なぜなら、インターネットとスマホで情報が簡単に検索できる今、似たようなUSPをたくさん発見することができるからです。
僕たちの脳の処理能力はなかなかのもので、コレは『ファスト&スロー』でダニエル・カーネマンがいうところのシステム1の方だと思いますが、意識せずとも目や耳から飛び込んでくる情報を処理しているそうです。
かつて僕が寝ながら学習と称して、睡眠中もダン・ケネディを聞いていたことがありますが、コレはシステム1と思われる脳の働きを利用してのものでした。
情報が新聞や雑誌、テレビやラジオ、直接の口コミで手の入れていた時代と、国境を超えてインターネットを通じて飛び込んでくる時代では、USPがマネされることも廃れることも早いと思うのです。
それに僕の定義ではありますが、USPは比較の上でのウリ表現です。
あちらよりもこんなメリットがありますよ。
コレがUSP。
モノやサービスを購入するなら、USPの果たす役割は大きいでしょうが、今や人で選ばれる時代だと僕は感じています。
モノやサービスで競争する時代ではなく、人で選ばれる時代。
だから競争はなくなる。
こんなことを、ピーター・ティールは言っていたように覚えています。
だから、もうUSPじゃない。
誰がそのモノやサービスをつくっているのか。
モノやサービスがいいことは当たり前で、誰がなぜそれをやっているのか。
コレを木坂健宣さんはMSPという造語で表現し、僕はその人の必然性や卓越性、魂の在りか、その人っぽさという言葉で表現しています。
この「コレがやりたいんです」という人も、かつてならそれでやれたかも、と思います。
競合と比較して、市場と照らし合わせて勝てるところをUSPとして表現すればいい。
しかしUSPをどんなに秀逸な表現で考えたとしても、所詮言葉は言葉です。
人の言葉は、その人から滲み出る雰囲気を超えられません。
その人が体験してきたこと、体験を通じてこんなことをやりたいと考えるようになったことは、その人の表情や仕草、身体全体から漂ってくるモノです。
そしてそういう漂ってくる雰囲気から周囲の人は、その人を勝手に判断しているモノです。
だから、人からよく道を聞かれそうとか、安心感を持たれそうとか、おっちょこちょいそうとか、浮気モノに見えるとか、深みがなさそうとか、マネされやすそうとか、周囲の人が自分をどう見ているかに着目しなければならない。
それに、今やSNSやインターネットに転がっている情報を簡単に調べられる時代です。
もっと知りたいと思ったら名前検索するでしょうし、怪しいと思っても名前検索するでしょう。
そこで情報が登場したら違和感の正体を探りますし、情報が登場しなかったら、じゃああの実績や言っていることは怪しいな、となる。
言葉ではなんとでも表現できますが、その人本人と言葉を並べたら、その人本人の印象が勝ちます。
人はメッセージに違和感を感じた時、目で見た情報を重視するようですし。
言葉はその人本人の器を超えない。
だからこそ、求められていないこと、その人っぽくないことをやろうとしてもうまくいかない。
でもコレがお客さんに伝わらなくて、、、どうすれば伝わるだろうか、と日々考えています。
こういう商品をつくりたいではなく、求められたからつくっていた
求められていたことって、ついついやってしまっていることなんじゃないかと僕は思うのですが、こういうのを商品にしたりサービスにしたりがコレからの時代にフィットするように考えています。
なぜなら、
なぜつくったのですか?
周りから求められることが多いので。
なぜ求められるんですか?
それは僕の体験に理由があるんじゃないですかね、、、
こんなやりとりから、周囲はなるほどなと頷くだろうからです。
ついやってしまうことを問い続けていけば、なぜそれをついやってしまうのかわかるでしょうし、そこにその人ならではの目指す世界というか、世界観が見えてきます。
この世界観、目指す世界に共感して、一緒に歩んでいきたい、という人たちがお客さんになる。
誰に惹かれて来ているので、商品やサービスが変わってもお客さんであり続ける、いや、同志のような存在として理想世界に向かって歩み続けるのではないか、と僕は考えています。
ないものねだりをせず、引き算の卓越でいこう
僕も含めて、なんかうまくいかないなって時はないものねだりをしている時、引き算の卓越で行動していない時であるもの。
こういう時はついつい足し算してしまって、自分ぽくないものを足してしまうモノです。
しかしあえて言うならウリとはつくるものではなく、自分の中から見出すモノ。
そう考えて、やっぱり引き算の卓越だよな、と結論づける、21番路線バスの車内でした。
21番バスはプラプラデーンの僕が結婚式を挙げたお寺から、チュラロンコーン大学までを結んでいる、なかなかの長距離バスです。空いていても1時間30分から2時間は必要なんじゃないかな…降りた場所はワット・フアランポーンというお寺のそばで、ココまで25バーツ(100円行かない程度)でした。
P.S.
この話は、お金から自由になるための話だと僕は考えていて、「いやいや、とにかく稼ぎたいんです」という人であれば、意思力を持ってやればいい。
でも、意思力って続かないから、、、コレが1億の売上があっても年々下がっていく理由だと僕は思うんです。
だからこそ、引き算の卓越で自分の卓越性を発揮すること=ついやってしまっていてラクなことを磨き、それをいいなと感じている人に提供したほうがいい。
僕はそう考えて、行動しています。
コメント