バンコク。子どもとの暮らし、自ら考える、紳士性。

引き算の卓越ブログ
この記事は約4分で読めます。

子どもと一緒に過ごす父親に問いたい。

言葉が通じず、子どもとのコミュニケーションで怒ったことはありませんか?

かくいう僕は、この3日ほど何かに怒っています、、、タイ語で怒るはモーホーです。

しかし、モーホーもいいんじゃないか、なんてことも感じています。

なぜなら、こういう父親が正解だ、というものはないと考えているからです、たぶん。。

モーホーの理由

長男も次男も僕の耳が遠く、タイ語は苦手ということを知っています。

しかし、聞こえるように努力してくれと頼んだら、眉間にシワを寄せて「お茶!」という一言にカチンときましてモーホー。

そして、エクササイズをしてくるから一緒に行くか部屋で待っているかを次男に問うと、お気に入りのアディダスが洗濯中だから部屋にいると、でも1人で待っているのはイヤということで、なんて自分勝手なんだとモーホー。

自分自身の子どもへの関わりがこういう結果をつくっているのだと思い、さらにモーホー。

アメをあげたくなる妻の気持ちがわかるとともに、そうは言ってもなんでもアメで解決したら、それが習慣化してしまうだろうと。

3日間、長男次男と文字通り寝食を共にし、一緒に暮らして思うのは、外に出ていろいろな環境を経験させたい、ということでした。

彼らは食事に行っても食べるモノは親任せ、親がやってくれるだろうと他人事です。

とはいえ、「これしか食べられない!」なんて主張はする。

じゃあそれを自分で注文すりゃいいだろ、と思うわけですが、「わかんなーい」「知らない人と話すのはコワーイ」。。

やれやれだぜ、、、

長男は人懐こくて、コミュニケーションを能動的にとるほうだと思ったんですけどね、、、

それで長男次男にそうじゃないだろう、ということを伝えるわけですが、、、伝わらず、もどかしい。

自ら考える、という行動の難しさ

僕は世の中には絶対的な正解というものはほとんどないのであって、人それぞれに正解というものがあるんじゃないか、と考えています。

常識はない、というかそんな感じです。

でも、僕が知る学びというものは、あらかじめ決まっている正解のようなものに辿り着くための考え方を学ぶのであって、これって自ら考えることとは違うと感じているのです。

正解ありきで道筋を考えるのか、正解はないものとして自らの答えを出すために何をどう考えるのか。

自ら考えるという僕の定義は後者であり、コレってどう生きるのかを考える、ってことなのかな、とも思っています。

親と一緒に過ごして親任せで生きるのか。

学校で先生と過ごして先生任せで生きるのか。

誰と一緒に過ごそうとも、自ら考えて生きるのか。

毎日の生活に差が出るのは、こういうところなのだと感じています。

でも僕ら自身が、父親が誰かに考えてもらい、誰か任せで生きているのだとしたら、、、子どもが自ら考えるようになるかというと、難しそうな気がします。

黙って見守るから透けて見える紳士性

かねてから、子どもを信じて好きなようにやらせればいい、それが親の責任なのだから、と考えていましたが、いざ長男次男と暮らしてみると、オレは口だけだな、、、痛感することがしばしばです。

どうしても口出ししてしまうし、アレはやるなコレは大丈夫とか、自分の価値基準で決めがちで、、、妻に対しての発言が思い出され、穴があったら入りたい。

でも、子どもたちの自ら考える力を育みたいなら、プールでバシャバシャやっても放っておく、せめて命の危険が本人にも周囲にもないように見守っておく、口は出さずに、という選択だと思うんです。

他の子どもが泣くかもしれないし、親御さんから怒られるかもしれない。

でも、それで学んでいく。

放任主義という名のもとに実は誰かに放り投げる、のではなく、長男次男と周囲の人を認め、信じること、そこに責任を引き受けること。

こういうのが紳士性という言葉の、僕の定義かな、、、そういう人間で在りたいとつくづく思います。

オレが志す教育ってそうじゃなかったかと自問自答しつつ、バンコクの暑い午前に泳ぐプールは最高なのです。

P.S.
セブンイレブンでおにぎりを買ってきまして、さんさんと照っている太陽の日差しを浴びながら、プールサイドに座って食べるおにぎりは、長男次男にとっても最高だったようです。

P.P.S.
長男も次男も具合が良くない、脚が痛いということで、今日は学校休み、、、でも元気に遊んでプールにも入っている、、、具合とか脚とかを利用にするのではなく、「行きたくない、なぜなら」と話せるように、そういう主張ができるようになってほしい、と思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました